Profile

Summarily

 

1947年       東京に生まれる。

1972年        早稲田大学理工学部卒、写真は独学で習得。
            学生時代に汽車を追いかけて写真を撮り歩くうちに、旅と見知らぬ人との出会いが面白くなり、写真撮影を職業とするようになった。
            主に、“良き時代”の一般誌のグラビアなどで仕事をしていた。

            鉄道、自動車、旅雑誌等の専門誌の取材を経験し、映画のスティル写真も担当し幅広いジャンルでの撮影をしている。

 

2001年       銀塩フィルムを捨ててデジタルの技術に懸ける決意をした。

 

 

著書         「北辺の機関車たち」共著(キネマ旬報社)

            「やきものの里雑記帳」共著(朝日新聞社)

            「ノスタルジックアイドル・二宮金次郎」共著(新宿書房)

            「World Golf Resort」共著(平凡社)

            「Small & Luxury Hotels」共著(プロセスアーキテクチュア)

            「ヨーロッパの鉄道・96」「ヨーロッパ鉄道撮影ガイド」共著(弘済出版社)

            「ヨーロッパ汽車の旅」(平凡社)

            「汽罐車」(新宿書房)

            など

 

日本写真家協会(JPS)会員

 

 

 

 

 

“反省記”

 

「半生記」ならぬ“反省記”を書いてみました。

日記を付けていたわけでも、資料があるわけでもなく、どろりとした記憶の澱ををかき回して浮かび上がってきた断片を紡いでみたものです。

仕事をしてからは、当時の出版物などがいくつか残っており、それらから時系列で記憶をたどってみました。

気が付いたところで、思い出したときに記述を追加します。都合の悪いところが出てきたらば"こっそりと"削除します。

思い違い、不正確な記述も多々あると思いますが、その点はご寛容にお願いします。

他人様からみればどうでもよい事ばかりでしょうが、何か多少なりともご参考になることがあれば幸いです。

 

 

 

1947(昭和22)年 東京、世田谷に生まれる。団塊の世代まっただ中。

 

1949年後半から  父の仕事の都合で51年前半までの一年半、長野県上田市に住む。

            父の自転車に乗せられて、リンゴ畑の向こうを走る蒸気機関車を見に行った。

            今思えばD50だったのだろう、僕の一番古い記憶は3歳の頃の上田に始まる。

 

1954年春      母に手を引かれて小学校の入学式へ。着物姿の母と満開の八重桜が印象に残っている。

            "家庭の事情"で幼稚園に行かなかったので、初めての集団生活がとても不安だった。

            クレヨンでチューリップの絵を描いても、級友たちの出来栄えがまぶしく見えた。

            今でこそ住宅地といわれる世田谷だが、当時は郊外の全くの田舎。

            夏はネギ畑の中でギンヤンマを捕り、冬には麦畑の向こうに真っ白な富士山を見ながら小学校に通った。

            高度経済成長が実感として感じることができたのは、50年代後半に原っぱや畑をつぶして住宅があちこちで建ち始めてからだ。

 

            目の前の景観が一枚の紙の上に再現される不思議さ、高学年になって写真に興味を持ち始めた。

            初めて手にしたのが「セミレオタックス」という4.5X6cmサイズの中古機。

 

1960年春      区立中学校に進む。小学校高学年の時に買ってもらった自転車で近郊を走り始める。

            車の数も少なく、さほど危険も感じずに都内を走ることができた。

            60年5、6月には自転車に乗り、岸首相の邸宅があった渋谷南平台や国会周辺に何度か行く。

            デモする人々熱気、真剣さ、テレビで見るものとは違う現実に驚き感動した。

            両親は「危ないから行くな」とは言わなかった。

            乗り物全般に興味を持っていたが、特に"飛行少年"だったので、自転車で羽田、立川、横田へ行き、飛行機の写真を撮影する。

            2年生の時に「オリンパス・ペンS」を買ってもらう。

            3年生になって、暗室作業をやりたくて写真部に入ると、人材不足ですぐに部長になる。

            写真部顧問の川田尚平先生に「学ぶとはどういうことか?」についてかなり本質的なことを教わり、

            受験勉強そっちのけで写真の道にのめり込む。

            中に入ってしまうと分からないので、部室の暗室で放課後遅くまで引き伸ばしをやっていた。

            警備員さんとは馴染みになり、教師が全て帰った後に帰宅した。

 

1963年春      都立高校に進学。滑り止めに受けるはずの私立高校の入学金の代わりに「ニコンF」を買ってもらう。

            多分、当時の父の一ヶ月分の給料にも匹敵するものだったはず、それはもう、嬉しくて、嬉しくて.......

            夏休みの臨海学級で、級友の河野志郎君の話に影響されて"飛行少年"は"鉄道少年"に変身する。

            我が家では高校生になって初めて一人旅が許された。63年暮れから蒸気機関車を追いかけて一人で旅をするようになった。

            担任教師から何とか学割を手に入れて、日程を工面して(学校をサボって)旅をしている。

            劣等生だったこともあり、学校にはあまり良い印象が残っていない。

 

1967年春      予定通りの一浪の後で、早稲田大学理工学部、鉄道関係の技術屋になろうと思い電気工学科に入学する。

            何とも不思議なことに、同じ電気工学科で次の出席番号の大島博生君のつてで、武田安敏君、堀越庸夫君、榊原茂典君らと知り合う。

            彼らは付属高等学院の鉄道研究会の仲間たちで、この後情報交換をしたり一緒に撮影に行くようになる。 

 

1968年       この年の春、廣田尚敬さんの写真展「蒸機機関車たち」が数寄屋橋の富士フォトサロンで開催された。

            今と違って「鉄道写真」なるジャンルは世間ではほとんど認知されておらず、

            都心の大きなスペースで蒸気機関車の写真が展示されるなど夢のよう。

            期待通り、いや期待以上にすばらしい写真展だった。畳一枚分にも匹敵する大伸ばしに圧倒された。

            よし何とか......

           秋、11月の早稲田祭で大きな教室が借りられることが分かり、無謀にも...個人で参加することにした。この時のタイトルが「汽罐車」。

            90x135cmの大伸ばしはどうするか、大パネルはどうするか、 はたまた、輸送はどうするか...... 問題山積だったが、

            何とか工夫をし、友人たちの助けでなんとか開催にこぎ着けた。

            この後数年、友人、後輩たちが毎年のように早稲田祭で写真展をやることになった。

 

            68年夏に、今までの35mm版に加えて6x6フォーマット、レンズ交換可能なカメラ「マミヤC」を導入する。

            撮影はモノクロ一辺倒だったので35mm版でも十分だったはずだが、

            カラー化も進み出した当時の鉄道写真界の趨勢に影響されてしまい、より精細な描写にあこがれたわけだ。

            できることならば交換レンズの豊富な「ブロニカ」にしたかったが、とてもじゃないが高価で手が出なかった。

            レンズ交換のできる6x6といえば選択肢はなく、「Poorman's BRONICA」というわけだ。

            「マミヤ」にしたのは臼井茂信さんの素晴らしい写真を見た影響も大きかったと思う。導入する自分を安心させることができた。

            しかし、今思えば動くものを撮るのにはあまり適したカメラではなかったと思うのだが、

            結果的には、どちらかというと引きで撮影することが多かった僕の撮影法には合っていたのかもしれない。

            ただし今、当時のネガを再点検してみると、中判フォーマットをうまく活かしたものが少ないのにがっかりする。

            見た目のファインダースクリーンが大きいので、十分引きつけないで早めにシャッターを切ってしまったもの。

            速い動きに追いついていないもの、画面整理ができていないもの..... 等々。

            要は扱いの難しい機器を十分に使いこなせていなかったわけで、

            機動性に優れた35mmで撮っておけばよかったと思うものが多いが、残念ながらもう遅すぎる。

 

            69年、70年... 忙しい時代だった。蒸機撮影だけでなく、色々なところに顔を突っ込み、経験をして激動の時期を過ごす。

            世界観、人生観も変わった。今一緒に住んでいる同居人、連れ合いとこの頃知り合う。

            思想信条は敬虔なクリスチャンででリベラルな父の影響を大きく受けていると思う。

            相変わらず学校の勉強はあまりせず、時間を作って旅をしていた。

 

1971年8月     武田安敏君、堀越庸夫君と共著、宮沢尚氏のデザイン、池田光雅氏進行でキネマ旬報社から「北辺の機関車たち」を出版する。

            宮沢尚さんのご指導の下で、本文レイアウトは3人で行った。

            夜遅くまでああでもない、こうでもない、とやっていた楽しい思い出がある。

            廣田尚敬さんの写真展「蒸機機関車たち」から、蒸機を擬人化したタイトルにも深く感動し、

            影響されてつけた写真集名が「北辺の機関車たち」。

            廣田さんのご自宅にお伺いして、お許しをいただくことにしたところ、

            優しく迎えて、快諾していただいた。ありがたいことだった。

 

1972年3月     普通より一年遅れて卒業。定職に就く機会もなく、

            このまま旅が続けられる仕事はないものかと思い、無謀にも写真撮影を生業にすることにした。

            

            誰かに師事したわけでも、写真学校に通ったわけでもなく、

            本を読み独学で習得した中途半端な技術を持つだけだったが......

            幸いなことに何人もの方々に助けていただき、フリーランスで今まで続けて来ることができた。

            当時、まっとうな鉄道写真家は廣田尚敬さんただ一人。太刀打ち、いや並び立つことさえ無理だと思った。

            そして、鉄道だけでなくもう少し広い世界も見てみたいと思い、幅広く一般的なジャンルの写真を志すことにした。

 

1972年5月     写真家三木淳さんが「北辺の機関車たち」を見て下さり、ニコンサロンで写真展がやれるように推薦して下さった。

            思いもかけない出来事に3人で驚く。

            ちなみ、この時はニコン提案の写真展ということで、当時の僕たちには身に余る多額の準備金をいただいた。

             しかし、例のごとく自分たちでプリントしてパネルを作ったので大分余ってしまった記憶がある、良い時代だったと思う。

             この写真展で、訪ねてきてくださった名古屋の機関士、川端新二さんと知り合う。いやもう、40年以上になるわけだ。

 

1973年初夏     朝日新聞社出版写真部デスク吉江雅祥さんの紹介で、「少年朝日年鑑」のグラビア「日本の蒸気機関車」の仕事をさせていただく。

             担当の朝野浩之さんと一緒に北海道取材へ。初めて飛行機体験だった。ボーイング727の窓の外、下を見ると雲が浮かんでいる、

             まるで池に映った光景を見ているようで何とも不思議だった。

             昼過ぎに有楽町の本社を出て羽田から札幌へ。夕方にはすすき野で酒を飲んだのだが、蟹やジンギスカンを食べても

             北海道に来ている実感がまるで無く、何だか新宿で飲んでいるような気分だった。

             長い間の経験で、北海道とは24時間以上かけてたどり着くものだという感覚がすっかり身についてしまったのだろう。

 

1973年秋頃から   朝日新聞社出版写真部で仕事をさせてもらう。

             初めは週刊誌のざら面の小さなコラムのモノクロ写真などから、厳しく教わりながら仕事をこなしていく。

             設備の整った暗室を使わせてもらい、現像、プリント技術をたたき込まれる。

             印画紙を小さく切って試し焼きをやろうとしたらば、「そんなことはやらなくていい」

             「最初から大きな紙を使って焼きなさい」と言われて驚いた。

             材料はいくら使ってもよいから、良いものを早く仕上げなさい、ということだった。

             いつも「この程度で良いだろう」という妥協は許されなかった。

             どんなに小さな扱いの写真であっても手を抜くことは許されず、常に最上のものを要求された。

             使ったこともない4x5などの大型カメラやストロボを借りて、使い方も教わりつつ仕事に出て行く。

             何年かたち、ようやく夏のイベント甲子園の高校野球の撮影に参加する。

             300mmは広角、500mmが標準で望遠は800mm以上という世界。

             選手をフレームに収めることさえ難しいのに、動きのあるプレーを追いながら、

             今と違って望遠レンズの浅いピントをキッチリと合わせるのは至難の技だった。

             モータドライブを使ってバリバリ撮るのだが、

             一日4試合、数十本のフィルムを使っても、使ってもらえるカットは一つもない日が続く。

             数人のチームで仕事をしているので、デスクは「まぁ、あいつはとりあえず戦力外」と思っていてくれるのだがろうが、

             こちらの居心地は良いはずはない。

             初めて「ご採用」いただいた時は嬉しかった。

             今でも覚えているが、残念ながらクロスプレーではなく、フレームいっぱいに写した投手の投球フォーム。

             「まぁ、これならば撮れるだろう」との恩情配置ポジションでの撮影だったが、

             「アサヒグラフ」見開きの大画面を飾ることができた。

             いや、それまでに一体何本フィルム"浪費"したのか......

             ふんだんに機材を使わせてもらい、職業写真家とは一体何なのかを身をもって教わったと思う。

             教えてもらいながら、ギャラをもらう、という恵まれたスタートを切ることができたのは本当に幸せだった。

 

1973年秋から    74年夏まで、「朝日少年少女理科年鑑」のグラビア取材「道東の自然」の撮影をやらせていただく。

             何度も訪れた北海道、それも特徴的な道東の自然とじっくりと向き合ってみたいと思って企画を立てたところ採用してもらえた。

             やったこともない風景、植物、動物の撮影をすることになる。風景、植物はともかく動物は、どうしたらばよいかも分からず、

             「キタキツネ」で有名な小清水の竹田津実氏、釧路にお住まいで「タンチョウ」写真の林田恒夫氏をお訪ねして、教えを請う。

             若さ故、怖いものなしで飛び込んだのだが、有り難いことに温かく迎えてくださり、「概論」から始まって注意点やコツを教えていただいた。

             後は試行錯誤、自分で工夫して切り開いてくしかない。

             秋冬春夏と、3週間ぐらいづつ取材に行く。フェリーに車を載せて渡道し、走り回って撮影する。長期間の取材なので経費も掛かるのだが、

             必要最小限の経費を出してもらい、節約しながらなるべく長い期間取材していた。考えてみれば"良い時代"だったと思う。

             動物の撮影には苦労した。もちろんそんなに簡単に撮れるとは思ってはいなかったが、予想を超えて遙かに大変だった。

             キタキツネの子供を撮ろうと、森の中の巣穴の近くに車を停めて現れるのをじっと待つ。早朝から夕刻までじっと待つ。2日経ち、3日目にようやく

             安全だと判断されたのか姿を現した。小さな子供たちがじゃれ合い転げ回る様は何とも可愛く、撮影できた嬉しさがこみあげてきた。

             鉄道写真を撮っていた時は「風景写真家」がうらやましかった。例えば、日の出の太陽をバックに列車を撮ろうとすると、

             太陽と列車の位置、タイミングを合わせるのが難しい。風景写真家ならば、列車の時間によることなくベストタイミングで撮れるからだ。

             しかし、野生動物を撮っていると、いつまで待っても出てこない。時間が来れば何はともあれ姿を現す列車がなんともうらやましかった。

             釧路湿原のほとり塘路に住み、動物写真を撮っている安部誠典さんと知り合い、大いなる助けを受ける。

             お宅に長期間泊めていただいただけでなく、知り合いの農家の方々の情報を提供してくださり、撮影には本当に助けられた。

             二人で山階鳥類研究所のスタッフに同行して、普通は立ち入れない根室半島沖のモユルリ島に上陸し、「エトピリカ」「千島ウガラス」など

             珍しい鳥たちも撮影でき、長く大変だったプロジェクトも成功裏に終えることができた。いや、それにしても楽しい取材だった。

 

1975年6月     「少年朝日年鑑」で「海」をテーマにしたグラビア取材のために沖縄に出張する。学生時代に蒸気機関車を追いかけて全国を旅したのだが、

            比較的早く蒸機列車が廃止された四国だけは、高校の修学旅行で行った香川県を除いて、3県は訪れたことがなかった。そして、この沖縄県も

            72年5月の本土復帰以前だったし、鉄道がなかったのでこの時が初めての訪問となった。

            同行は年鑑編集部の大塚芳正さん、同じ歳で酒も強く心強い相棒だ。まずは、7月20日から開催される「沖縄海洋博覧会」の取材のために

            北部の本部町に向かう。だが、開会まで後一月というのにあちこち工事中だらけで写真にならない。困り果てていると、「週刊朝日」や「アサヒグラフ」の

            取材のために長期滞在をしていた出版写真部の先輩たちが「こっちは僕たちが撮って渡すから、君たちは先島にでも行ってゆっくしてきな」と

            助け船を出してくれた、いや大きな船だった。

            有り難いご厚意に甘えて、早速南西航空の那覇-石垣便のチケットを取る。機材はYS-11だったと思うが、チェックインの時に預け入れ荷物と一緒に

            体重を量られてたのには驚いた。石垣島から竹富島に渡り、本土よりは早く梅雨明けした、気持ちの良い天気の下で数日過ごした。

            写真を撮ったかというと、あまり撮らず、ゆっくりと流れる時間に身を任せ、体で沖縄先島(さきしま・宮古、八重山などの離島)を感じて、取材していた。

            

1975年暮れから  76年4月まで、週刊「アサヒグラフ」でカラー4ページ、16回の連載「雑物往来」をやらせてもらう。これは担当の佐竹義一さんの企画で、

             「ほうき」「ざる」「算盤」「ムギワラ帽子」「割り箸」「料理見本」「輪ゴム」等々...... 身の回りにある"雑"なるものを取り上げ、産地や業者を訪れて

             その成り立ちや、いわく因縁を解き明かそうというものだ。

             普段はあまり注目もされない"雑"ではあるが、何気ない物たちの持っている小さな世界を再発見することは"雑誌"で仕事をしている身にとって

             撮影や誌面作りの基本でもあるわけだ。実際に取材に行くと改めて知ることは多く、こういうことでも無ければ一生知らなかった事ばかりだろう。

             "雑学"を通じて、仕事だけでなく大げさに言えば人生すらも幅を広げられたと思う。

             最初の取材は12月の寒い時期の京都だった。油断して軽装で行ってしまい、我慢できなくなってデパートで厚手のセーターを買うことにした。

             今までだったらば安物を見つけたのだろうが、この時は思い切って上等な物を買ってしまった。結構潤沢に出してくれた取材費があったからこそ

             できたことで、今でもそのセーターは時々出して着ている。初めての「週刊誌」の連載だったので忙しかったが、色々な思い出が残っている。

            

1976年暮れから   77年秋まで、週刊「アサヒグラフ」で「雑物往来」と同じように「やきものの里・雑記帳」を二期に分けて25回連載する。

             担当の徳本光正さんと二人で全国の陶芸の産地を訪ねて、ほどよい値段で品質の良い雑器(食器など日常的に使用する器)を

             探しだそうという企画だ。二人とも「やきもの」に関しては素人なのだが、徳本さんが言う、「生まれてこの方、何十年も食器を使ってきたのだから

             使い手としては専門家」という視点で、しがらみには捕らわれずに良い器を見つけみよう、同じ陶芸でも権威が幅を利かせる茶道具とは違い、

             普段使いするものにスポットを当てて素朴な目で見直そうという企画だ。

             北は北海道旭川から南は沖縄まで全国各地を、締め切りにも追われて一度の出張で二カ所の産地を訪れる忙しい取材だったが、

             今まで経験もしたことのない新しい体験は楽しかった。

             撮影に関しては、出版写真部の長谷忠彦さんから「スタジオ撮影のカタログのように撮るのではなく、現場の雰囲気を大切にして撮るように」と

             アドバイスされた。これは「現場」の持っている力を最大限引き出しなさい、そこでしか撮れないものを撮りなさい、ということで、

             その後も、いつの場合でも気をつけなければいけない大切な視点を教わった。

 

1978年5月      「少年朝日年鑑」他数誌の取材ということで、

             年鑑編集部の朝野さんと二人でオーストラリア、マレーシア、シンガポール、タイランドに約一ヶ月の出張。

             30歳を過ぎて、初めての海外体験。成田に移る直前の羽田から出発。今と違って情報も少なく戸惑うことばかりだった。

             困った時は、国内で十分に経験を積んでいた「旅の知識、仕方」に助けられたことが多く、それは大きな財産になっていた。

             しかし、中学から大学教養課程まで8年以上学んだはずの“英語"はほとんど役に立たなかった。

 

1978年10月     初めての海外旅行一人旅。

             当時「パンアメリカン航空」が出していた「Around the world in 80 Days $999」というチケットを見つけてきた。

             米国のナショナルフラッグキャリア「パンナム」が世界一周航路を持っていた時代のものだ。

             対ドル為替相場は200円の時代、20万円ほどのチケットで80日間以内の世界一周ができるという当時としては破格のチケット。

             ただし色々と制約があって、基本的には米国発、米国着のチケットなので、

             とりあえずグアム発券にして、グアム〜東京を捨てて東京から西回りでアジア、ヨーロッパに向かう。

             その後、米国に渡り、太平洋線はハワイ、グアムと来て、 グアム〜東京は正規チケットを約5万円で買う、というものだった。

             また、予約はできず、スタンバイのみ。空港に行ってまずは並んでみて、最後まで乗れるかどうか分からないという代物。

             しかし現在と違って、空席の多いフライトが多い時代だったので、心配はしたが結果的には問題はなかった。

             

             10月下旬、まずは前述のように南回り便でロンドンに向かった。安く小さな宿を見つけて、心細くも楽しい数日を過ごした後に、

             東京から来たグループと一緒に、イングランド北部、スコットランド南部で展開された「RACラリー」を取材する。

             11月に入り、一人旅を再開。ヨーロッパ大陸、オランダに移動してアムステルダムからユーレイルパスを使って3週間の旅をする。

            「Europe 10 Dollars a Day」というガイドブックを頼りに、安宿と夜行列車を乗り継いでフランス、スイス、イタリア、ドイツ、オーストリアを周遊。

             再びロンドンに戻り、当時南スコットランドに滞在していた義理の兄を訪ねた。

             兄の手助けで、街の自動車修理工場で安いレンタカーを借りてスコットランドを走り回ることにした。

             ウィスキー工場を訪ね、ネス湖では「ネッシー研究所」なるところに立ち寄ると、全く嘘っぱちの合成写真の展示にあきれた。

             夕方、最北のヒースの荒野を走っていると低い雲間にピカリと光るものがあり、すわ、UFOか?普段はUFOなど信じてはおらず、

             そんなことは全く考えないのだが、人気もないこの荒野の真っ只中でひょっとしたらば、という気分にさせられてしまった。

             車を停めてしばし眼をこらしていると、雲が切れて再び現れたのは東の空に上がった月だった。

             ロンドンに戻り、大西洋を渡りニューヨークへ。どう見ても田舎者なのだろう、植物検疫で「Don't you have any fruits?」と聞かれて

             「Yes, I don't have.」とやってしまい、なかなか通してもらえなかった。

             一晩中パトカーのサイレン音が途絶えない大都会に驚き、機上から見るこの国の大きさと豊かさに感嘆した。

             ロス・アンジェルス、サンフランシスコと駆け足で巡り、年末ぎりぎりに東京に帰ってきた。

             2ヶ月半も外国にいれば英語も何とか話せるようになるだろう、という当初の楽天的な目論見は見事に外れて一向に上達はしなかった。

             それはそうだろう、そんなに甘いものではなく、「人生、舐めたらばいかん」ということだ。

             撮ってきた写真も一部は"売れた"のだが到底経費回収には至らず、授業料は安くなかった。

 

1979年5月     往復のチケットを無料でもらうことができ、懲りもせずにヨーロッパに約1ヶ月の撮影旅行。

            撮影対象は「機関車」。残念ながら蒸機ではなく、電気機関車が主となる。

            フランス、ドイツ、スイス、イタリア、オランダ、スウェーデン、ノルウェーなどを、相変わらず夜行列車を乗り継ぎ、安宿滞在で周遊する。

            様々なデザインに興味を惹かれ、我が国の鉄道からは想像もできない高性能、そして古典機が活躍している様に感激するのだが......

            列車内や駅での撮影ならばそう苦労はしないのだが、鉄道写真の本流は走行写真だ、との思いが強い。

            列車で移動して駅に降り、徒歩で撮影現場に向かうという昔ながらの方法で撮影する。

            当事、国内では車を使って効率よく撮影し始めていたので、どうもこの古典的な方法は趣味ならば良いかもしれないが、仕事となると...

            と疑問がわいてきた。

            翌80年も同じ時期に、同じようにチケットが手に入り約1ヶ月のヨーロッパ旅行をしたのだが、仕事として成り立たないと思うようになり、

            しばしヨーロッパ鉄道撮影旅行は中断することにした。

 

            しかし、海外一人旅を続けるうちに、苦手だった英語も徐々に何とか話せるようになってきた。

            「Have、Take、Get」などの簡単な動詞で色々な表現ができることが分かり、簡単な構文をいくつも覚えることで応用することにした。

            また、ヨーロッパのように、今日はフランス、明日はドイツ、というような旅をしていると各国の言語を覚えるのはそれは無理なこと。

            しかし旅をする上で、宿に泊まって、ご飯を食べて、何かお願いする、ということぐらいならば10も単語を覚えれば何とかなる、と気がついた。

            「数字の1,2,3,」「お願いします」「いくらですか」「どこですか」「何ですか」... それに「ビールを一杯」ぐらいなもんだろう。

            国境を越える列車の中で「六カ国語辞典」を開いて急いで覚えたものだった。

            ただし、何かあった時に、ある程度ちゃんとした言葉、まぁ英語だろうが、が話せないと困ることがある。

            僕も何度か、撮影禁止問題で警察のご厄介になったのだが、ちゃんとこちらの主張を通さないと大変なことになる。

            一人旅では助けてくれる人はいないのだから、いざという時のために、ある程度の英語力は大切だと思う。

 

 

1979年夏、秋    夏の甲子園高校野球撮影の時に、富山治夫さんから

            「秋に中国から京劇団が来て、撮影をするのだが手伝ってもらえないか」と相談される。

            富山さんと言えば、僕が高校生だった頃に「朝日ジャーナル」の「現代語感」という連載で大活躍をされていた出版写真部OBの写真家。

            それは本当に有り難いことで、憧れていた方でもあったので二つ返事で引き受けることにした。

 

             9月から、約一ヶ月の首都圏、関西、九州公演に同行して、舞台撮影をし、衣装、小道具などのブツ撮りを行う。

             初めての助手家業をやってみて面白いと思ったのは、ボスが何を考えて何を要求してくるかを事前に読むことだった。

             言われる前に用意しておき、その通りになると、それは気持ちの良いもの。こちらの頭のトレーニングとしては、きついが最適だった。

             3人の助手のチーフとして働いたが、"先生"に対しても「こうやって撮ってください」などと言ったり、かなり生意気な助手だったと思う。

 

             この撮影成果は翌80年に平凡社から「京劇」として二分冊で出版された。編集作業にも富山さん、僕も立ち会った。

             造本デザインは杉浦康平さん。精緻で独創的な仕事で有名な方だが、何日も夜遅くまでの作業にお付き合いすることができた。

             柔軟な発想、職人的で確実な実作業など驚くことが多く、鋭く強烈な職業意識の一端を見せていただいた。

             この時の助手が鈴木一誌さんで、その後長いお付き合いをさせていただくことになる。

 

             フリーランスとは言え、ほぼ80%以上は朝日新聞社の仕事をしていたのだが、富山さんの紹介で講談社、平凡社他の仕事をさせてもらう。

            「月刊現代」のグラビアの単発企画に始まり、有名人の故郷の鉄道の思い出「我がふるさとのローカル線」の連載を一年半ほどやらせてもらう。

             その後、「週刊現代」、平凡社「太陽」などの仕事をする。

 

1980年        長い間、1963年から18年間使っていたニコンシステムをキヤノンに変更する。

            ニコンのプロサービスが、会社などのスタッフカメラマンには手厚いのだが、フリーランスには冷たく、思い切って切り替えることにした。

 

1980年初夏    富山さんのアシスタントで初めて中国に行く。前年の「京劇」撮影、長年の中国取材の実績のある富山さんにカナダの芸能プロモーター

            から中国取材の依頼が来た。広州の雑伎団と北京の京劇団をカナダに呼んで講演を行う計画の宣伝用の撮影をすることになった。

            大業な書類を用意、申請して厳しいチェックの上にようやく渡航許可が下りる時代。広州に行くのも直行便など無くまずは香港に行き、

            ソ連製の中国民航機で香港ー広州の短い区間を飛んだ。夜になって降り立った広州白雲空港は真っ暗闇。彼方に「白雲空港」と

            赤いネオン表示の有る小さな建物まで歩いて行くとそこがターミナルビルだった。

            空港から市内まで我々を乗せた小型バスは警笛を鳴らし続けて狂ったように走る。明かりがほとんど無いのにヘッドライトも付けずにだ。

            それがバッテリーの節約のためだと聞き、びっくりする。なぜならば薄明かりの幹線道路には自転車も、馬車も、人の通行も頻繁にあるからだ。

            ホテルなど無かったのだろう、郊外の招待所、広大な別荘のようなところに連れて行かれて一夜を過ごす。周りには大きな池が広がり、

            一晩中蛙が鳴いていた。

            赤いクラウンが我々の専用車として用意されそれで移動する。観光名所に行き車を停めると人々が集まってきてその前で記念撮影が始まる。

            庶民生活とはかけ離れた特権階級のもてなしに、何ともつらい思いがした。

            劇場での雑伎団(サーカス)にもびっくりする。人間業とは思えないような芸に撮影の手が止まってしまうほどだ。幸いにこちらの依頼で

            何度でも演じてもらえるので撮影は楽だし、彼らにしても遠い外国に行ける機会が来たのだから当然大張切りだ。

            しかし、この神業とも思える演技を見ているとある種の"哀しさ"を感じざるを得ない。芸を究めるために彼らは今までどういう訓練と努力を

            してきたのだろうか。人口が多い中国、だからこそ頂点に立つものは際立つのだが、同時に並外れた能力の陰の"哀しさ"を感じる。

            驚き、痛切な思いが一つ。雑伎団の団長さんは70年配の穏やかな方で、通訳を通してこちらの要求を聞き、細かく面倒を見て下さった。

            仕事中は、富山さんと二人で日本語が通じないことをいいことに、かなり言いたい放題のことを言っていたと思う。

            しかし、ある時、富山さんが乗っていた脚立が傾いて落ちそうになった時、「危ない!」と確かな日本語で叫んだのがこの団長さんだった。

            よく考えてみればそうだろう。敗戦からまだ35年、団長さんの壮年時代は日本占領時代だったのだ。その事をおくびにも出さず接して下さった。

            僕自身は、この中国の旅も、後の台湾、韓国の旅もそうだったが、もちろん行きたいのだがそう能天気には行けないような気持ちが有った。

            珍しい物事に囲まれ、忙しい時間を過ごすうちに初心を忘れそうになった時、冷や水を頭から浴びせられたような出来事だった。

            

            招待所で食事や掃除、我々の世話をしてくれるのは若い女性たち。皆化粧気が無くすっぴんなのだがきれいな人が多い。

            そして皆、カーキ色の人民服を着ている。街を歩いてもスカート姿の女性は見かけない、人民服か地味なスラックス姿だ。

            経済成長を遂げた?日本から見れば驚くことばかりの中国の旅、この後の北京でも驚嘆は続いた。

 

            北京で一番印象に残っているのは自転車に関してだ。宿は天安門広場前の北京飯店に泊まったのだが、毎朝"シャーッ"という音で目を覚ます。

            目の前の幅広い通り一杯に拡がって自転車が走っている音だ。自動車はもちろんバイクさえも数少なく交通の主役は自転車なのだ。

            次から次へと湧いてくるように現れる人民服姿の人々。この国のマンパワーの凄さと、経済発展に必死に向かっている姿が印象的だった。

            もう一つ自転車と言えば、歩道を歩いていても何台もの自転車に突きかかられることには驚いた。こちらもボ〜ッと歩いているわけではないのだが、

            歩行者よりは自転車の方が"エライ"というヒエラルヒーがあるようだった。自転車といえど庶民にとっては高価な財産であるから、ステイタスシンボル

            という意識が成り立っているようだ。少しの差でも優越感を感じる庶民のいじましさ、そして、その自転車さえも自動車には蹴散らされている。

            何とも悲しい光景を目にした。人間を大切にすると聞いていた「社会主義国」なのに... との思いと同時に、この旅であちこちでぶつかった、

            硬直した、それこそ社会主義を蹴散らしている、人の序列こそが大切な「官僚主義」のすさまじさを強く感じた。

 

1980年秋      様々な理由があって、写真家杉山吉良さんのお供で、オーストラリア、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ニュージーランドの取材に

            同行することになった。

            杉山さんは「賛歌」など先駆的なヌード写真で有名でだが、戦中、戦後は報道写真を撮っている方です。

            戦時中、1942年6月にアリューシャンのアッツ島上陸作戦を取材しているが、残った将兵2600余名は米軍の攻撃で43年5月に玉砕した。

            1978年に杉山さんはアッツ島を訪れ、北辺の孤島に咲く花々に将兵たちへの想いを重ねて「北限の花・アッツ島再訪」を上梓している。

            80年、この年に杉山さんは古稀を迎え、戦時中の将兵を鎮魂するために北方だけでなく南方の島々の花々も撮ろうと決意したようだ。

            従軍取材も経験し、戦後の海外取材、そしてヌード撮影の先駆者と長かった写真人生の中での一区切りをつけよう、という覚悟を感じさせられた。

            予算はあまり無く、僕はツアーコン、通訳、運転手兼、の撮影助手だ。つまり、限られた予算の中で、全てをやらなければならなかった。

            この時僕は32歳、倍以上も年齢の違う老写真家と二人で、10月下旬、旅に出た。

            翌年の1月中旬までの約3ヶ月間、いや、それは大変な旅だったが、多くは語るまい。

            もちろん勉強させられたことも多く、この機会を与えられたことに感謝するほかないだろう。            

 

1981年秋      ご存じだろうか?映画「真っ赤な動輪」。岩波ホールの高野悦子さん、姉上の岩波淳子さんのために富山さんが企画したものだ。

             お二人の父上、髙野与作さんは南満州鉄道の技術者で「あじあ号」の運転や、ロシア国境の黒河までの路線進展に尽力された方だ。

             与作氏がこの年の初夏に亡くなり、悦子さんの「富山さん『あじあ号の機関車、パシナ』の写真を撮ってください」の願いを聞き、

             東映に話を持ち込み作ってしまった映画だった。

             まだ中国への渡航もままならない時代、ましてや映画を撮影することなど考えられない時代のことだ。

             しかし、中国での取材に関しては日本のカメラマンの中では先鞭をつけていた富山さんは、障害をクリアして実現してしまったのだ。

             9月に少人数の撮影チームが編成され、スティル写真担当で僕もその一員に加えてもらうことができた。

             高野悦子さん、岩波淳子さんも参加して、大連から始まり、瀋陽、長春、ハルピンと約2週間の撮影旅行。

             幹線の優等列車はディーゼル機関車牽引になっていたが、どこへ行ってもまだまだ蒸気機関車が多数活躍していた。

             ハルピン駅では行き交う蒸機列車、立ちこめる煙の匂いに...... そう、日本から蒸機がなくなり6年目... 涙が出てきそうだった。

             僕はスティル写真だけではなく、人材の乏しいチームの中で何回かムービーも回すことになった。

             映画は翌82年5月に全国の劇場で公開されたが、残念なことに興行的には大失敗。

             しかし、後年になって「あの時代にあのような映画が見られて感動した」と聞き、あぁ、少しは良かったかなと嬉しくなった。

 

 

とりあえず前半、後編に続く。